九龍の夜が終わる頃、蒸気の向こうに灯りが見えた
ネオンが滲む、夜の九龍。どこかの店から広東語の笑い声が漏れてきて、路地の奥では麻雀牌が卓を叩く音がしています。香港の夜というのは、日本のそれとは根本的に違う密度があります。深夜になっても街は生きていて、むしろ深まるほど体温を持ち始めるような感覚です。
その夜、私はクーロン(九龍)の雑居ビルに入り込んで飲み続けていました。一人旅の気楽さと孤独が混ざり合った、あの独特の酔い心地。気づけば時刻は夜の22時を回っていました。胃の中にアルコールだけが溜まっていて、何かを食べなければ、という本能だけが体を動かしていました。
ふらりと佐敦(ジョーダン)方面へ歩いていくと、湯気が立ち込める店が見えました。蛍光灯の白い光の下、地元の人たちが無言で麺をすすっています。テンプルストリート(廟街)の夜市のすぐ近く、「囍記車仔麵(ヒーキー・チャーイミン)」。
この記事では、香港一人旅の夜に私が体験した「飲んだ後の〆麺」として、囍記車仔麵での実食レポートをお伝えします。車仔麺とは何かガイドも交えながら書き残しておきたいと思います。
香港・九龍の夜遊び事情〜クーロンからジョーダンへ
香港旅行で「夜の九龍」を体験したことがある人なら、あの独特の熱量をきっと覚えているはずです。香港島の洗練されたバーシーンとは違う、もっとドロドロとした人間の欲望と生活が混ざり合ったような、九龍のナイトライフ。
特に旺角(モンコック)から油麻地(ヤウマテイ)、そして佐敦(ジョーダン)にかけてのエリアは、深夜になるほど独特の雰囲気を帯びてきます。雑居ビルの隙間から光が漏れ、路上では占い師や屋台が営業を続け、スーパーの前では地元のおじさんたちがビールを片手に話し込んでいる。旅行者として眺めると、まるで香港映画のワンシーンに迷い込んだような気分になります。
この夜、私は九龍の繁華街をひとりでうろうろしながら、いくつかの地元の酒場をはしごしていました。香港のローカルバーで飲む青島ビール(チンタオ)はとにかく安くて旨いんです。地元の人たちに混じって乾杯し、広東語のコミュニケーションをジェスチャーで乗り切りながら、いい感じに酔いが回ってきた頃、ふと気づきました。
「最後に何か食べてから寝よう」
アルコールと旅の興奮が体を支えていたのですが、空腹はごまかせない。こういう時、日本なら「ラーメンで〆」となるところですが、ここは香港。だったら答えはひとつワンタン麺でしょう。
佐敦エリアは、香港のローカルグルメが密集するゾーンのひとつです。テンプルストリート(廟街)のナイトマーケットが近く、夜遅くまで人通りが途絶えません。ネオンに照らされた路地を歩いていると、湯気を立ち上らせる食堂が次々と目に入ってきます。
そんな中で私が吸い込まれるように入ったのが、「囍記車仔麵」でした。
囍記車仔麵(ヒーキー・チャーイミン)とはどんな店か
「囍記車仔麵」は、佐敦の白加士街(Parkes Street)101号にある、地元密着型のローカル麺屋です。テンプルストリートのアーチ門からほど近く、夜市を散策した帰りにふらりと立ち寄るには完璧なロケーション。
店内は決して広くありません。テーブルが所狭しと並び、知らない客同士が相席になることも当たり前。厨房とホールの境界は曖昧で、湯気と喧騒と料理の匂いが混ざり合った空間は、香港のローカル食堂そのものです。
特筆すべきは、その営業時間。なんと深夜0時まで営業しています。これは「飲んだ後の〆」を求める人間にとって、これ以上なく理想的な条件です。地元の飲み客、夜市帰りの観光客、夜遅くまで仕事をした近隣の住民——さまざまな人種が深夜のこの店に吸い込まれてきます。
注文方法は香港のローカル食堂スタイルで、テーブルにある紙の注文票に自分で書き込むか、店員に指差しで伝えるシステムです。広東語が話せなくても、メニューには英語表記もあるので安心してください。店員さんは忙しそうにしていますが、困っていれば助けてくれます。
メニューの幅広さも魅力のひとつです。車仔麺(車仔麵)はもちろん、雲吞麺(ワンタンヌードル)、さらにサイドの小吃(スナック)まで充実しています。麺の種類も豊富で、細い「幼麺」から春雨のような「河粉」、インスタント麺風の「公仔麺」まで選べます。スープも清湯(クリアスープ)・咖喱(カレー)・無湯(汁なし)など複数の選択肢があり、自分だけの一杯が作れるのです。
価格帯は1杯HK$40〜70程度。1,000円ほどです。香港の物価を考えれば良心的で、複数頼んでもそれほど財布にダメージはありません。実際、私はこの店で三種類の麺を頼みました。
車仔麺(チャーイミン)とは?香港B級グルメの原点を知る
「囍記車仔麵」の名前にもある「車仔麺(チャーイミン)」とは、日本ではそれほど知られていませんが、香港人にとってはソウルフード中のソウルフードです。
車仔麺の歴史は1950年代にさかのぼります。戦後の経済的に厳しい時代、移動式の屋台(=車仔、手押し車やリヤカー)で手軽に提供されていた麺料理が起源です。「車仔」という名前自体が、その移動式屋台に由来しています。
貧しい時代に生まれた料理だけあって、コンセプトはシンプルです。安く、腹いっぱいになれる、自分好みにカスタマイズできる——この三点です。麺の種類・スープの種類・具材を客が自由に選んでオーダーするスタイルは、現代のカスタマイズバーガーよりずっと前から香港の街角で行われていたことになります。
時代が進むにつれて移動式屋台は店舗型に移行し、選べる具材の種類はさらに増えていきました。牛バラの煮込み(牛腩)、ランチョンミート(午餐肉)、大根(蘿蔔)、魚蛋(フィッシュボール)、豚皮、腸詰め、揚げ豆腐……50種類以上の具材を用意するお店もあるほどです。
香港独特のこの多様性は、食文化研究者が「雑種の食文化」と呼ぶ香港料理の本質とも重なります。広東料理の土台の上に、様々な地域の移民が持ち込んだ食材と調理法が積み重なり、何でもアリでありながら、独自のコクを持っています。それが車仔麺というB級グルメの正体です。
囍記車仔麵のメニューを見ると、その懐の広さがよくわかります。タイ風豚首肉(泰式豬頸肉)、スイスチキンウィング(瑞士雞翼)と名付けられた甘辛ソース漬けの鶏手羽先、炸魚皮(揚げ魚皮チップス)——これだけ多国籍な具材が一枚のメニューに並んでいる料理が、他にあるでしょうか。
そんな車仔麺の世界に、私はこの夜、深く足を踏み込んでいきました。
実食レポート①雲吞麺(ワンタンヌードル)。透き通ったスープの正体
私が最初にオーダーしたのが雲吞麺(ワンタンヌードル)でした。
目の前に届いたそれを見て、まず息を呑みました。スープが、透き通っているのです。
日本のワンタンスープを想像していた方は、きっとその澄み方に驚くと思います。香港の雲吞麺に使われる清湯(チントン)スープは、豚骨・鶏ガラに加え、干しエビや干し平目(大地魚)などの魚介を組み合わせて丁寧に取った、旨味の塊のようなスープです。それでいて白濁せず、琥珀色に澄んでいます。この澄み方こそが、香港清湯スープの誇りとも言うべき特徴です。
麺は「幼麺(ヤウミン)」と呼ばれる極細麺。見た目は輪ゴムのようにくるくるとしていて、口に入れると鴨卵(ダックエッグ)の黄身を練り込んだコシと独特の弾力が炸裂します。アルカリ性の水で作られているため、ほんのり黄色みがかっているのも特徴です。
そしてワンタン。香港の雲吞(ワンタン)は、広東本土のそれと違い、海老が主役です。プリっとした大ぶりの海老が薄い皮に包まれていて、噛んだ瞬間に海老の甘みと旨みがスープと混ざり合います。スープの中で雲吞がぽかりと浮いているのは、皮が薄く具がしっかり包まれている証拠だとも言われています。
深夜の胃袋に、このスープが沁みました。
アルコールで荒れた体の中を、温かくて上品な旨みが通っていく感覚は、何とも言い難いものがありました。ジャンクな刺激ではなく、滋味深い優しさ。「ああ、香港に来てよかった」と、その瞬間だけ素直に思えた気がします。
実食レポート②ランチョンミート&牛バラの車仔麺。ジャンクの美学
二杯目は、王道の車仔麺です。
カールのかかった「公仔麺(ゴンジャイミン)」をベースに、午餐肉(ランチョンミート)と牛腩(牛バラ煮込み)をトッピングしました。見た目からして主張が強い一杯です。ピンク色のランチョンミートが麺の上にどっしりと鎮座し、その横に黒々と煮込まれた牛バラが積み上がっています。
午餐肉(ランチョンミート)は、香港ローカルフードの象徴とも言える食材です。スパム缶のような加工肉で、香港では朝食から深夜まで、茶餐廳(チャーチャンテン)や車仔麺屋など、あらゆる場面に登場します。焼いてわずかに表面を焦がすと、ぱりっとした食感と塩気と旨みが麺に絡んで、これがやめられません。
牛腩(牛バラの煮込み)の方は、スパイスを効かせた甘辛のブレーゼです。長時間煮込まれた繊維がほどけるように柔らかく、崩れる直前のその食感は、深夜の胃袋に重みと満足感を与えてくれます。
このジャンキーな組み合わせが、正直、最高でした。
雲吞麺の上品さとは対極にある、圧倒的な庶民感。でも決して品がないわけではなく、香港という都市の「何でもアリだけど、それがちゃんと旨い」という本質がそのまま皿の上に載っかっているような感覚です。
アルコールの後には、これぐらいのジャンク感がちょうどいい。むしろ完璧です。
実食レポート③大根と揚げ豚皮のスープ麺。地元民だけが知る組み合わせ
少し冒険した一杯です。
ほかのテーブルを見ていると、地元のお客さんが白くて大きな何かが浮かんだ麺を食べていました。「あれは何だろう」と思いながらメニューを見ると、蘿蔔(ローポー、大根)と炸魚皮(揚げ魚皮)の組み合わせ。これにしよう、と直感的に頼んだのが正解でした。
スープは清湯(クリアスープ)を選択。届いた一杯には、白くてふっくらと煮られた大根の塊が贅沢に入っていて、その横に揚げ豚皮(写真ではやや揚げ魚皮のようにも見えます)がふたつ、スープを吸ってふやけた状態で鎮座していました。
大根はスープの旨みをじわじわと吸い込んでいて、箸を入れると崩れんばかりに柔らかい。口に入れると、スープのコクと大根本来の甘みが一緒に広がります。揚げた豚皮はスープで戻ることでプルプルとしたコラーゲン質に変わり、独特の食感と旨みを加えてくれます。
これは日本人の感覚では少し意外な組み合わせかもしれませんが、一口食べれば納得です。体に優しく、それでいて旨みが深い。あっさりとした清湯との相性が抜群で、気づけばスープまで飲み干していました。
この一杯は、「酒の〆」というより「体のリセット」のような役割を果たしてくれた一杯でした。
アクセスと営業時間
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 店名 | 囍記車仔麵(Hee Kee Cart Noodle) |
| 住所 | Shop 1, G/F, 101 Parkes Street, Jordan, Kowloon, Hong Kong |
| 営業時間 | 10:00〜深夜0:00(〜翌0時) |
| 最寄り駅 | MTR佐敦(ジョーダン)駅 A出口 徒歩約5分 |
| 支払い | 現金・各種電子マネー対応(要確認) |
| 予算の目安 | HK$50〜130(約1,000〜2,600円) |
※営業時間・支払い方法などは変更になる場合があります。訪問前にご確認ください。
アクセスの目安
MTR佐敦(Jordan)駅のA出口を出て、佐敦道を右方向へ。テンプルストリートの大きなアーチ門を目印に進み、Parkes Street(白加士街)を左折すると程なく見えてきます。夜は蛍光灯の明かりと湯気で目立つので、迷うことはほとんどないはずです。
〆に行く最適なタイミング
この店が特に輝くのは、夜22時以降です。テンプルストリートのナイトマーケットがにぎわい、周辺で飲んだ後のローカルたちが次々と吸い込まれてくる時間帯。店内は適度に混んでいて、活気があります。
深夜0時まで営業しているので、九龍の夜を存分に楽しんでから、締めの一杯を求めて訪れるのに最適です。観光客よりも地元客の比率が高い時間帯でもあり、よりディープな香港の夜を体験できます。
ぜひ、あなたも香港の夜を飲み明かして
〆はジョーダンのワンタンヌードルで。


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